2008年04月09日

宮城のアートシーンの潮流(笑)について その2 −宮城輝夫の生涯(戦前編)−

宮城のアートシーンの潮流(笑)について その1からの続き


幾多の集合離散の転変のあとに残るのはなにか。それはよくもあしくも個の芸術家の刻印、歴史のへげしいあらしに削りとられたあとの個の刻印でしかない。そして芸術ほど朽ちやすく、消しやすいものはないのだ。しかも凡百の芸術は残る!うずたかく残る!――瀧口修造



戦後の前衛芸術運動に大きなインパクトを残した美術集団『九州派』の中心人物として活躍した菊畑茂久馬は、その著書のあとがき(※注1)で、こう書いている。

 ご承知のように、「九州派」の資料、証言は、今日はっきり言って皆無である。当時あれだけ爆発的に沸騰した激しい芸術家集団が、現在ひとかけらの痕跡も残さず、きれいさっぱりと消え去っているということは、ちょっとした脅威である。あれだけ鉄壁の団結を誇った芸術家集団に、一冊の作品写真集も無い。それどころか、展覧会場の写真、会合、催しなどの写真さえほとんど無い。パンフレット、案内状、ポスター、機関誌しかりである。
(中略)
 要するに、芸術の文脈の外に在り続けようとした芸術の悲しい末路である。持続と反復を唾棄した芸術、周縁から外縁へ向かう遠心的芸術、無意識者と添い寝をしようとする芸術、中央に反旗をひるがえした芸術の当然の運命である。


菊畑がこの著作を公刊した後、九州派は、再評価の機運が高まり、大規模な展覧会も開かれることになるが、翻って現在、宮城県の美術の歴史を顧みたとき、そのアートシーンで一際眩い光芒を放っている、『エスプリヌウボオ』グループと、その中心人物だった宮城輝夫(※注2)の活動を体系的にまとめた資料は未だ存在しない。(※注3)。

昨年から文献を読み漁り、いろいろな人に話をうかがうにつれて、宮城輝夫と糸井貫二(※注4)以上のインパクトと魅力を持った「面白い」アーティストは宮城県のアートシーンでは未生である、との思いは僕の中でじわじわと強くなった。

戦後の宮城県のアートシーンがどのように展開されてきたかを知るのには、宮城輝夫の生涯と活動を中心に話を進めるのが一番面白く、分かりやすい。

宮城先生と全く面識がない僕が、宮城先生について、したり顔で語る、なんてことはおこがましいことだと承知はしているけれども、宮城“センセイ”を中心にした、宮城県の前衛アートの歴史は調べれば調べるほど面白く、これを世に出さないのは、もったいない!と思ったため、僕が知りえた範囲の情報を、ここに書いてしまうことにしました。
きっと、このブログを読む方には、宮城先生と親しかった方もいらっしゃると思います。僕の表現が稚拙な箇所や、事実が異なっていたりすることがあれば、ご批判・ご忠告いただければ嬉しいです。
なお、以下の文中、固有名は敬称略しました。ご了承ください。


明治41(1912)年、宮城県南部の白石町(現在は白石市)在住の外科医師宮城秀の男兄弟五人の末弟として宮城輝夫は生まれた。4つ年上の四男四郎(※注5)も、将来を期待された洋画家であり、士族の家に生まれ、絵画や音楽を愛する家庭環境にめぐまれた輝夫は、幼い頃から芸術にのめりこんでいく。
輝夫の文章から幼少時を回顧した文章を抜き出すと、こんな具合だ。

満七才。ボンネットを被った西洋婦人像のスカート丈はいくら長く描いても益々素適なこと、また天という文字の中央の縦の線は是亦好きなだけ長く伸ばしても恰好が好いことを発見・・・・・・云々
(※注6)


(おそらく十一、二歳ぐらいの頃と思うのだが)父母や兄たちが読み捨てた古い雑誌の中から、衝撃的な、記憶に残る三枚の口絵を発見しているのである。イタリアの印象主義を先取りしたともいわれる黄と赤茶色の見るからにドロリと絵具を厚塗りしたセガンティーニの群像と、ラファエル前派の夢憑きの絵師ロセッティの「ベアト・ベアトリクス」(もちろんあとで判明)に加えて残る一枚は、黒く大きな空間の拡がりの中に病的なまでに神経質な曲線を駆使したビアズレーの挿絵「ワグナーを聴く人びと」(?)だったのである。(※注7)


20世紀のはじめの日本の東北のド田舎(白石の方、すいません!)にいながらにして、何という素晴らしいセンス(笑)。文中に挙げられた画家の名前からも、輝夫がいかに早熟な少年だったかが窺えることと思う。
昭和4(1929)年、白石中学を卒業後上京した輝夫は、3年間の滞欧を終えて帰国したばかりの熊岡美彦(※注8)に師事する。
また、昭和7(1932)年には、2回の滞欧で、アンドレ・ロートやフェルナン・レジェに学んだ川口軌外(※注9)に師事した。
幼い頃から海外の美術に大きな憧れを持っていた輝夫が、当時の欧州の前衛美術をリアルタイムで体験して日本に紹介した、この二氏、特に、帰国後に独立美術協会(※注10)を創立してその中心人物として活躍した後者に受けた影響は計り知れないことだろう。
昭和9(1934)年には、「エルンストの影響を受けたと氏がいう構成的な作品」(※注11)、『瑠璃器』が第4回独立美術展に初入選。以後、第5・12・13・15回展に作品を出品する。
また、東京での生活で、多くの芸術家と親交を深め、さらに深く海外の芸術へ耽溺していくようになる。戦前を振り返った略歴には、ディレッタントを気取りながら、以下のように記す。

一九三五年 リュルサに接近、ピカソ、ブラックを刻み、ダリ、マグリット、ロワを服用、エルンスト、アルプ、ベルメールにより下痢を起こす。
(中略)
一九三八年五月 銀座の小さな茶廊で、地中海を想わせるような青い和服の着流し、してまた憂愁にみちた眼差しでサテイの銅像や帽子屋を所望し――或いはクルト・ヴイルのマハゴニ市の興亡やタンゴ・バラッドに聞き惚れていた美少年を記憶の人はいないだろうか。そのザーキなイカレ少年こそ私である。フロイドやエリス、そしてマルクスを飼い馴らす者たちへの禍が、日を追って募っていった暗いかぎろいの歳月が軍服のカーキー色の襞の間に隠され、準備されていたのだ。
一九四〇年 ネルヴァル、ルネヴィル、イシドール・デュカスが嵐のように私の体内を吹きぬけ、アルフレッド・ジャリとジャック・ヴァシェの二人が私の血液型を変えてしまった。以来私は、凍りつつあるのか、それとも解けつつあるのだろうか。(※注12)


昭和11(1936)年に、ジャン・コクトーが来日していることから、竹熊健太郎『篦棒な人々 戦後サブカルチャー偉人伝』太田出版、1998。に収められている、「ジャン・コクトーが来日したとき、僕は横浜の港までコクトーをむかえに行ってねえ。そしたらコクトーの目のまわりに隈ができて真っ黒なの。ありゃあ、アヘンのやり過ぎだねえ」という発言も、この間の出来事だろう。
さらに、1937年には、日本のシュルレアリスム運動の嚆矢となった新造型美術協会(※注13)に入会。
輝夫は、大塚耕二らと、マン・レイ『ひとで』やデュラック『貝殻と僧侶』といった前衛映画の上映運動を行った。この上映には大きな反響があったようで、『コレクション・日本シュールレアリスム3 シュールレアリスムの写真と批評』には、当時の式場隆三郎や長谷川宏の映画評が収録されている。
1939年には前衛写真協会(※注14)に参加。
宮城輝夫は20代にして、日本、世界の錚々たるアーティストたちとの同時代人の自覚を持ち、前衛アートへの関心を強めていくのである。

<後編につづく>

このエントリの注釈

宮城のアートシーンの潮流(笑)について その2&その3 参考文献
posted by スズキナオキ at 03:48| Comment(0) | TrackBack(0) | 仙台のアートや文化 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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